出来るだけ早期に将棋教育を開始する必要があったのですが、まず問題となったのが僕が将棋を指せないという事だったんですよね。
子供に習い事をさせている親は沢山いますが、大半は道場等に入らせて後は放置みたいな感じではないでしょうか。確かにそれでも子供が偉大なプレイヤーになった例はいくらでもあります。羽生先生だって親は将棋がまともに指せないらしいですし。
でも、うちの場合はそういう子供の自主性に任せて運試し!みたいなコンセプトではないので、絶対に子どもたちには将棋に打ち込んで貰わなければなりません。そして、当たり前ですが、親が熱中していない事を子供にさせるのは難しいです。
それは幼少期の子供の世界観では親という物差しが絶対だからで、逆に言うと親が好きなことは大体簡単に子供もハマらせることが出来るとも言えます。余談ですが親が美味しいって食べてるものは、大体、子供も好きになるらしいですよ。
という事で仕方ないのでまず将棋を覚えました。
毎日毎日馬鹿みたいに将棋に打ち込んで、駒の動かし方を知っている程度だった僕が三年かけて将棋ウォーズで初段になったころ、ようやく雪風がまともに言葉を話せるようになり、本格的に将棋教育を開始しました。
ここがまず1つ目のミス。
将棋は比較的ルールの難しいゲームです。
まず各種駒の動かし方と成不成、打歩詰めなど補足ルールを覚えないといけません。
ですから日本語がある程度わかるようになってからでないと、教育が開始できませんでした。正しく言うと教育の方法がわかりませんでした。もちろん、それまでの間もパズル等をさせて知育(将棋の下準備)をさせていましたが、本格的に将棋を始めたのは雪風が三歳ぐらいのころだったと思います。
どうぶつ将棋から初めて、慣れてきたら今度はどうぶつ本将棋へと移行。対局は序盤が難しいということで、詰将棋を主にさせていました。褒められるのが嬉しかったのか雪風はどんどん詰将棋が解けるようになり保育園の年長のころには地元の将棋教室で一番強い子にも互角以上に戦えるようになっていました。
この頃の将棋教育は僕としても実験的要素が強く、今にしてみるとあまり密度の濃いものではなかったように思います。なんと言っても三歳まで将棋を開始しなかったのは致命的です。何がなんでももっと早くから将棋を始めさせるべきでした。当然、当時は最速最善をつくしたつもりでしたし、やり直せたとしてもそれより早く将棋が教えられたかは疑問ですが、チャレンジはするべきだったかな、と。
そのくらい早期教育は重要だと今は考えています。
結果論ではありますが。
それともう一つ、大きなハンディがあったとするならそれは親の熱量でしょうか。
当初、将棋教育についてお嫁様はあまり乗り気ではありませんでした。もちろん、将棋が悪い影響を与えるはずもないので、反対などはありませんし、ある程度理解して協力もしてくれていました。ですが、やはり本気ではなかった。もちろん僕も今ほど本気で将棋をさせていた訳ではありません。雪風が強くなるにつれて段々と僕たち親のテンションも上がっていったので、スタート時点は暖機運転に近いものがあったと思います。(はじめの頃、お嫁様は子どもたちを中学では運動系クラブに入らせるという計画を絶対に譲らなかった)
そんな事もあって、加古川の門を叩いたのが雪風が小学一年生の夏となってしまいました。地元で敵無しになってから随分と時間をかけたものだと思います。
もっとも雪風は加古川将棋倶楽部のSクラス昇級が歴代二位(当時)という記録を打ち立てたので、ほぼ最速で最前線を走っていたことは間違いありませんが、それでもスタートで出遅れた(させてしまった)感は否めません。
雪風には悪いですが、彼が整えた環境を初めからフル活用できた零戦は、あきらかに兄を上回る速度で強くなっていますからね。どんなことでも下の子ほど強くなる理由はこの辺りが影響していそうです。
余談ですが、僕は一切零戦に将棋を教えていません。駒の動かし方から何から雪風が弟に教えました。
雪風が泣きながら僕のところにやってきて、弟がちゃんと駒を動かしてくれないと言っていた姿が忘れられません。
見ると零戦はどうやら金を斜め後ろに引いていたんですよね。
そして一言、
「別にいいやんか」
その言葉にまた泣く雪風。
話が逸れましたが今回の結論と致しましては、子供が生まれる前から暖機運転を開始して両親の熱量を上げておくこと。言葉より先に将棋を教えることの二点となりますか。第一子ではまず不可能なミッションだとは思いますが、経験上のレポートなのでまあ、そんな感じで。
次回からは棋力についてもっと深く考察したいと思います。よろしくお願いします。